ランダムアクセス・レビューRX(8) ─ ドキドキの魔法タイム!

まどか☆マギカ』のまじめな感想は昨日書いたので、今日はあんまりまじめじゃない(?)感想をまとめておく。昨日のように焦点を絞ってしまうと書き足りなくなってしまうことがいろいろあるのだ。

Mの救済/魔法少女は二人で一人

 3話のMamitterシーンから盛んに言われ始めた「平成ライダーっぽさ」について。
 なんで『まどか☆マギカ』が平成ライダーっぽく見えたかと言うと、「魔法少女」と聞いて何となく頭に思い浮かびがちなイメージを、作中での「魔法少女」の定義がことごとく裏切っていたからだろうと思う。「こんなの仮面ライダーじゃない」と同じように「こんなの魔法少女じゃない」みたいな感覚が与えられるからだろう。でも、最後の最後でまどかが「魔法少女」の“再定義”をしてみせたことで、「魔法少女」が決してマイナスの意義ばかりではなく積極的に背負う意味をも帯びていたことが明らかになった。
 で、この流れって実は平成ライダーについても言えることなんじゃないかと思う。ステレオタイプな印象だと平成ライダーって「古典的なヒーローとしての“仮面ライダー”像」を打ち壊してそのまま壊しっぱなししているという感じになるんだろうし、実際その線で「平成ライダー」を再評価して昭和ライダー回帰っぽく見える『剣』や『響鬼』を酷評している人もいたしね。誰とは言わないけど。
 でも、実際の平成ライダーって実は、具体的に目の前にいる敵を対せばそれでOKという対立の構図じゃなくて、そのような対立を成り立たせている「構造」そのものを最後には打ち壊すことがポイントになっていたりする。『龍騎』はミラーモンスターや敵ライダーを倒すだけじゃなくて、そのような対立を生みだすライダーバトルの構造自体を破却することが終着点だった。『剣』でも同様に敵アンデッドやジョーカーを単に倒すんじゃなくて、そのような戦いを生みだすバトルファイトを終結させることがゴールだった。しかもこちらは一段捻って、バトルファイトの大元の動因である「生物の生存競争」そのものは終結させようがないので、剣崎自身がアンデッド化することで生存競争がバトルファイトとして示現するのを無期限停止に追い込むという裏技というかバグ技を使い、その代償として剣崎は永遠にアンデッドの本能と戦い続ける運命をその身に引き受けることになる。実際、『まどか☆マギカ』終了後に仮面ライダーファンの感想を見ると、結構『剣』のラストを連想している人が多かったようだ。
「ほむら、おまえは人間たちの中で生き続けろ。俺たちは二度と会うこともない、触れ合うこともない、それでいいんだ」「まどかぁぁぁ!」「……奴は人であることを捨てることにより、人を、世界を守った。だが、彼女は今も戦い続けている。どこかで、運命と」
 ……おっと、戦い続けているのはまどかだけではなく、再構成された世界でQBを引き連れて魔獣と戦い続けるほむらもだ。まどかとほむらは単に離れ離れになっただけではない。永遠に手を取り合うことはもう出来ないけれど、「一人じゃないさ、離れていてもずっと仲間だ」とさわやか笑顔で言うディケイドBLACK編の南光太郎のように、遠く離れた友の絆を信じて戦い続けるのだ。これって『剣』以外にも何かに似てるなぁと思ったら、『仮面ライダーW』で一旦フィリップと永遠の別れをした後の翔太郎、あるいは紆余曲折あったけど最後にはよき家族として園咲一族と別れたフィリップと同じではないだろうか。例え身体は二度と出会うことがなくても、精神的にはまどかとほむらはこれからも二人で一人の魔法少女なのだ。さぁ、おまえの罪を数えろ!(<誰の?)

“ゼロ査定”される魔法少女

 あともうひとつ、まどかが救った世界の中で平和に生きる人々が、縁の下で自分たちを救ってくれたまどかのことを(ほむら以外)誰も覚えてはいないというあたり、『劇場版仮面ライダーカブト GOD SPEED LOVE』の天道総司にちょっと似ているような気もした。もともとスーパーヒーローがアクシデンタルな状況から人々を救う存在である以上、最良の成果とは「そのヒーローがいなくても済む状態」なので、もし未然にアクシデントを防ぐことで最良の成果が達成された場合、皮肉にも人々はそのヒーローの存在意義自体を認識することができないのだ。

村上文学は「宇宙論」である。
その基本的な構図はすでに『1973年のピンボール』に予示されていた。
「猫の手を万力で潰すような邪悪なもの」。愛する人たちがその「超越的に邪悪なもの」に損なわれないように、「境界線」に立ちつくしている「センチネル(歩哨)」の誰にも評価されないささやかな努力。
(略)
アフターダーク』は二人の「センチネル」(タカハシくんとカオルさん)が「ナイト・ウォッチ」をして、境界線のぎりぎりまで来てしまった若い女の子たちのうちの一人を「底なしの闇」から押し戻す物語である。
彼らのささやかな努力のおかげで、いくつかの破綻が致命的なことになる前につくろわれ、世界はいっときの均衡を回復する。
でも、もちろんこの不安定な世界には一方の陣営の「最終的勝利」もないし、天上的なものの奇跡的介入による(deus ex machina)解決も期待できない。
センチネルたちの仕事は、ごく単純なものだ。
それは『ダンス・ダンス・ダンス』で「文化的雪かき」と呼ばれた仕事に似ている。
誰もやりたがらないけれど、誰かがやらないと、あとで誰かが困るようなことは、特別な対価や賞賛を期待せず、ひとりで黙ってやっておくこと。
そういうささやかな「雪かき仕事」を黙々とつみかさねることでしか「邪悪なもの」の浸潤は食い止めることができない。
政治的激情とか詩的法悦とかエロス的恍惚とか、そういうものは「邪悪なもの」の対立項ではなく、しばしばその共犯者である。
世界にかろうじて均衡を保たせてくれるのは、「センチネル」たちの「ディセント」なふるまいなのである。


After dark till dawn ─ 内田樹の研究室 2004年9月17日

 まどかのほうは「天上的なものの奇跡的介入」を行ったけど、構図としてはまどかの立場は「センチネル」や「雪かき」に、そして劇場版天道総司によく似ている。他人のある行為のおかげで私たちは「最悪よりはまだマシ」な状況の下に今生きているけれど、現実にその最悪を経験していない以上、その「他人のおかげ」を私たちは認識することはできない。まどかや(消えた方の)天道総司の水面下の働きは、(作中での)現実を生きる人々の視点からはしばしば“ゼロ査定”されることになるだろう。

「いいよ、これはオレがやっとくよ」という言葉で未来のカタストロフは未然に防ぐことができる。
けれどもカタストロフは「未然に防がれて」しまったので、誰も「オレ」の功績を知らない(本人も知らない)。
そういうものである。
成果主義は、この「成果にはカウントされないが、システムの崩壊をあらかじめ救ったふるまい」をゼロ査定する。
だから、完全な成果主義社会では、システム崩壊を未然に防ぐ「匿名で行われ、報酬の期待できない行為」には誰も興味を示さない。


Who is to blame? ─ 内田樹の研究室 2007年6月8日

 最終回のほむらがまどかの存在の記憶を引き継いでいること、そして(かつての)まどかの家族の意識にまどかの存在の“痕跡”がかすかに残っていることが、見ている側に“救い”として映るなら、それは見る側に「まどかを“ゼロ査定”してほしくない」という思いがあるからだろう。ここでメッセージのボールは、作品から視聴者側へと投げられたのだ。「では、あなたならどうする?」と。平成ライダー同様に、『まどか☆マギカ』もまた見ている側に「では、あなたはどうする?」と問いかける、メッセージ性の強い作品なのだろうと思う。

もう何も恐くない

 ……なんかまじめな話に振っちまったじゃねーか。元に戻してちゃんと萌え萌えな話もしないと。

 ということでマミさんである。思わずマミマミしたくなる超中学生級ナイスバディ、みんな大好きマミさんだ。こらそこの人、頭だけ取ったりしないよーに。
 巴マミの登場シーンというとやはり「マミさんのテーマ(通称)」が非常に印象的だ。

 基本的に巴マミの変身・戦闘シーンに使用されることの多いBGMだが、10話で魔女の犠牲にされかかったほむら(第1ループ目)をまどかとマミが救いに来た時にも同じBGMが使用されている。「いきなり秘密がばれちゃったね……クラスのみんなには、ないしょだよっ!」というアレだ。9話までとは打って変わったまどかの快活な魔法少女振りを印象づけるシーンである。このBGMは単にマミのテーマと言うだけではなく、まだ魔法少女システムの暗黒面を知らない無知ゆえに成立する“魔法少女の明るい側面”を象徴する曲と言えるだろう。それだけに、華麗で美しい旋律が今聴くと「夢のはかなさ」を連想させて、ちょっと切なくなる曲でもある。

 で、その10話での「みんな死ぬしかないじゃない!」のせいで豆腐メンタル呼ばわりされたりするマミさんだけど、与えられた条件下でもっとも冷徹に先を見据えた結論としては、「魔女の発生を防ぐために今の時点で魔法少女を(自分ごと)全滅させる」という結論はあながち間違っているわけでもないんだと思う。あの魔法少女の中学生たちの中では、良くも悪くもいちばん“大人”だったがゆえにああいう結論に達したということだろう。だからこそ追い込まれた閉塞感が際立つわけで、いい意味でイヤな描写だ。



 ……なんでだ、なんで萌え萌えな話に特化させてもらえないんだこの作品は! おのれディケイドォォォォォォ(違